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神戸鉄工団地協同組合の歴史 先輩インタビュー 2004年9月1日

神戸鉄工団地協同組合はどのようにして生まれたのか?
当時の様子を組合理事の方々にお伺いしました。

●神戸鉄工団地協同組合 理事長 奥谷勝彦 (株式会社 奥谷金網製作所 代表取締役社長)
●神戸鉄工団地協同組合 副理事長 山田勝也 (阪神機器株式会社 代表取締役会長)
●神戸鉄工団地協同組合 副理事長 山本康夫 (株式会社 ミマタ 代表取締役社長)


青年部会設立のキッカケ
●組合が出来たのが昭和40年。そして昭和52年に青年部会が誕生しました。青年部会ができるまで12年経っています。青年部会ができる前の年に総合運動会を開催していますが、皆さんはそのときの実行委員をされていたそうですね。
総合運動会
■山田

そう。青年部会の前身というわけじゃないけど、実行委員会に所属していたんや。
親会の方が青年部会を立ち上げるという強い意志があった。

運動会をやるためにはすごい労力が必要やった。参加者が700人くらいいたから、まとめるのが大変で。その運動会の後に、青年部会を作ったらどうかという話になったのかなあ。

●運動会が開催されるまでは福利厚生的な行事はなかったのですか?  
■山本 野球大会とボーリング大会をやっていたな。
野球大会は各社対抗の形で組合ができた当初から実施してたんや。


野球大会


ボーリング大会

   
■山田 野球大会は青年部会が中心で開催した訳ではなかったな。各社、従業員数もマチマチで、自分達の会社だけでチーム編成できるところとできないところがあって。そこで2社が集まって1チームつくったところもあったと思うよ。
   
■山本 それでも結構チーム数があって盛り上がっていたよな。
   
■山田 野球大会に参加していたメンバーと、後に青年部会を立ち上げた人が中心となって運動会を立ち上げたんです。
野球で同じチームにいても双方の会社の人どうし、あまり面識がなかった。念願の食堂が昭和50年に完成し、昼休みに顔を合わすようになって、そういう話しが出てきた。
●当時親方さんたちと、青年部会のメンバーというのは、年齢的にギャップがあったのでしょうか?青年部会の誕生が昭和52年くらいですけど、ちなみに当時の年齢は?  
■奥谷 計算すると…34歳やったな。  
     
■山田

青年部会の定年は45歳です。青年部会作るときに、青年部会の定年を50歳ということで考えていたのが、先輩が50歳にもなって青年部会っていうのは恥ずかしいというので、45歳にしたんです。

そういう経過があったんです。青年部会はね。
当時から地域社会と密着していこうという思いはあった。地域社会って言われてもピンとこないでしょう?

全国に協同組合と称するところが、いくつあるか把握してないけど、商工中金の人によると、その協同組合を構成している会社が2万社あるらしい。

そのうち3分の1くらいが地域と密着して共に歩んでいるのとちがうかな?
地域を共にするというのは大変なことなんですよ。神戸鉄工団地のように地域で繋がっていたら、なかなかウチ辞めますわというわけにいかない。代わりを見つけてきて、承認してもらわないといけない。そういう制約があるんです。

今の青年部会の人は、大半が物心ついたときに鉄工団地があった。自動車があって、カラーテレビがあって。我々の青年部会の時は親父が鉄工団地を作っている姿を多少見ているのよ。で、ここ20年ほどポツポツと団地ができている。いかに市町が工場団地をつくって誘致してきたのかが分かるでしょう?

でもね、神戸鉄工団地だけは、自分達がこの土地やということで決めたんです。

 
●当時、伊川谷を選択した大きな理由は何ですか?  
■奥谷 始めはね、候補地が多聞(現在の木工団地)の場所と伊川谷の2箇所あったんや。  
     
■山本 鉄工所は大きな物を運ぶ。伊川谷は神明道路が神戸まで開通するという予定があった。その点も優位やった。  
     
■奥谷 木工団地の場所は神戸市が斡旋してくれていたのです。ところが地形的に不利があったこともあり、価格と立地条件で伊川谷に決定されたということを聞いています。
地主側との交渉は苦労したそうです。明石や大蔵谷などの各地に地主が分散していたからな。

神戸鉄工団地全景
(昭和54年)
   
●当時の土地というのはどんな風景でしたか?
■奥谷 田んぼばっかり。
   
●当時、長田など神戸の中心から、鉄工団地のある場所というのは、遠いイメージが強かったですか?それとも本当に田舎やなあというイメージが強かったのでしょうか?  
■奥谷 遠かったな。遠いイメージやった。  
●その時は鉄工団地に行くという期待が大きかったですか?不安が大きかったですか?  
■山本 期待というよりもむしろ、その当時は長田では仕事ができなくなっていたと思う。公害問題があったから。それで鉄工団地に行くという思いが強かった。
従業員通勤用バス
   
■山田

長田から伊川谷に移って、交通手段は不便だったなあ。
通勤バスは当時なかったから、路線バスでな、しかもそれが途中までしか来ない。
東西の道ができたのが42年頃ちゃうか?

鉄工団地では、工場の構造改革を実現させたんです。40年前にな。
先輩はよく言っていたよ。
「こんな近代的な工場つくってなんで守られへんねん。」と。
それくらいお客さんから見て近代的な工場だった。

●その当時の仕事量は?  
■山田

団地協同組合という制度ができたことは、当時、国の中小企業政策の中では画期的だった。一箇所に連帯交渉させて、まとめて金を用意する。
市街地のものを追い出すという考え方も多少あったんだろうけど。
近代化=高度化=集団化というのが直結していた。

年間売り上げ3000万円の会社が1億円くらい投資していたんです。売り上げの3倍とか4倍とか。今では考えられへん。年商の7割くらい、借入金を借りた。

 
     
■奥谷 鉄工団地に入るには審査があった。  
     
■山田 これを推進する今の中小企業団に審査員がいて、組合員個々の審査もあった。  
     
■山本 今でも審査はある。  
     
■山田 会社の将来的な成長力も審査された。今は成長力って言っても評価するのが難しいけどな。  
     
■山本 ほんと、あのころは仕事もそこそこあったよ。  
鉄工団地というステータス
■山田

高度成長の始まる前に構造改革してきたわけだから、その波をまともに味方につけることが出来た。
だから、鉄工団地に参加しているというだけで、一種のステータスがあったんです。
鉄工団地にいるって言ったら羨ましいと言われたもの。でも会社にとっては大きな賭けだったわけです。年商の3倍も金を借りるわけやから。

当時は阪神鉄工団地ができて、西神鉄工団地が造成されて、そんな状況でした。
競って集まっていた。
「新天地を求めて」という言葉があったくらいです。

 
●当時の働いている人たちの息抜きはどうでした。今と違いますか?  
■山本 今は団体で遊ばへん。当時は団体で遊んでいた。野球したり、スキーに行ったり、ボーリングしたり。
人がよく集まっていた。
 
     
■山田 遊べる機会が少なかったからね。だから遊べる企画をしたら、よろこんで集まってきた。青年部会とかそういう枠を抜きにして。  
     
■山本 三宮に青年部会の溜まり場があった。週末そこに行ったら必ず誰かおるねん。(笑)  
     
■山田 そこに行ったら、必ずと言っていいほど10人くらい男ばっかりで踊りまくっていたなあ。
当時は携帯電話もなかったけど、不思議と集まっているんです。
 
●カラオケBOXはあったのですか?  
■山本 あった。ちょうどカラオケが出た頃と、私たちが働き出した頃と重なっていたから。  
共同宿舎をどう改善していくか?
■山田

過去のことを我々に聞くのはおおいに結構。でもあれだけのものを何らかの形で活かして行かなアカン。我々は去る身。

鉄工団地ができたところは中学の卒業生が多かった。高校を卒業した人間は鉄工所には勤めない時代だった。中学生の就職先が鉄工所だったんですよ。

それで、
他府県からも学校の先生が回ってきて、何人か採用してくれませんかとか、求人ありませんとか。言ってきた。

そこで雇い入れるために共同宿舎がいるということで、建築することになったんです。当時、2段ベットを両側において、一部屋に4人入れようとしていた。途中で2人にしたんかな。部屋は全部で40あるけど、今は2部屋しか使われていない。

普通だったら問題になっている。今、それが問題になっていないのは、償却しきったから。でもそれは他の利益で返せただけ。あれだけの建物を2人しか使っていない。当時の求人表には、160人もの宿舎ありと書いていたんやで。今後は問題やな。

生活が高度化していったから、あんな居住空間では誰も入らなくなってしまった。

以前、あれを何とか解決せよってことで、青年部会に宿題が出た。この人(山本)、近くの大学に寮として使ってくださいと頼みに行ったこともあったんやで。
共同食堂を始め、これだけ環境が充実していて、自分たちで運営してうまいこといっている。こんなところは全国にもなかなかないと思う。全国には、食堂を止めて集会所にしているところも多いくらいやから。

でも今の鉄工団地は食堂の赤字を他でカバーできている。1食で黒字にしようというのが無理。しかも昼食という、酒も飲まない状況で。でも今後もうまくやっていかないとダメやな。
駐車場は、最初高いといっていたけど、2年度目から黒字。


共同宿舎
     
■山本 食堂は人の金を使っておいて赤字という批判もある。
共同食堂
   
■山田 人の金といってもみんなの金やから、それでみんなの飯をつくっているんやからええという考え方もあるし。
1日に作っているのは300食くらいかな。
組合員を納得させるには食堂行くのが楽しみやというメニューと、雰囲気作りが必要。
●中はきれいし、冷暖房はきいているし、快適な環境ですよ。
■山田 お客さんがきたときに、案内しても恥ずかしくはない。  
●食堂が出来る前は?  
■山本 弁当屋が出入りしていた。  
     
■山田 最初は業者に運営を委託していた。
寮の人に朝食と夕食も用意していたから。
 
●15周年の冊子について
神戸鉄工団地
15年のあゆみ
>>ダウンロード
(PDFファイル:5.8MB)
■山本 当時の理事長が、お前らが今後支えていかなアカンのやから、勉強せいって言われた。
それで当時の議事録をどさっと積まれて。
皆で作ったんです。
   
■山田 15年のころの先輩はぜひ先輩に学んで今後に生かして欲しいという願いがあった。
過去を共有せよって考え方です。
伊川谷地区ではものすごい先駆者だったんです。
できた当初、大蔵谷から鉄工団地にくる間に、店が少ししかなかった。
●団地ができた関係上、まわりが充実してきたんですね。  
■山田 そう。先駆者やったんです。  
     
■奥谷 だから鉄工団地というだけで信用があったんやで。入りたくても入れない会社が一杯あった。  
     
■山本

自分が子供の時に車を将来自分が持つなんてことは考えられなかった。

あなた方の年代は感動がない。我々のころはテレビがきた日とかな、冷蔵庫がきたり、ステレオがきたり、そんな時に感動する機会があった。今は全て揃っている。

 
     
■山田 今あるものを認識して、今後どうするのかということを考えないと。今の青年部会の人も我々のころのように仲良くやって行って欲しい。  

 

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